昭和52年01月21日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 先日ある方が、お参りというか、毎日熱心に日参して見えるお母さんですけれども、子供さんのことで、子供さんが余りにも迷いそれから悩んで苦しんでおられる様子が、手に取る様に見える。母親として、どうしてもひとつおかげを頂かせたい、という気持ちのお届けがございました。財産も有るし、お店も色々持っておられるから、この店はもうあんたにまかせるとかあげるとか、こうこうだと、まあ親の気持ちを言われるけれども、仕事だけのことではない。
 もう一事が万事、人間生きていくという事に付いての悩みやら苦しんでおる様子を見てから、お母さんがその様なお届けをなさいます。僕は、この合楽に修行に行こうかと思う、とまで言われる位に悩んでおられる。けれども親先生にあんな、言うならば合楽教会を罵倒しに来られたんですわざわざ。非常に頭の良い方です。ですから哲学的な勉強が大変好きで、何時もその本を読んでおられる。
 又は。当時はある宗教的なものに傾倒して、それを最高に有り難いものと言うておられたもんですから、もう金光教なんか邪教の様に言うておられる。だからもう、家の母親もここには参らせん、という様な事を言うて帰られる様な事があったのです。ところが、その宗教と言うか、宗教的なそういう中心になる人が非常に我情我欲があった事に気が付いて、もうがっかりして、その為にその人と一緒にブラジル迄も行こうという様な腹を決めとったんです。
 もう親戚なんかでん、見立てまでしてもろうてする積もりでおったんです。それがそういう、只自分達を利用するだけの事であった様な事が分かったもんですから、もうそれこそ突き落とされた様なね、信頼しておる人から裏切られたという、そういう悩みもあるし、もう歳も二十六かなられますから結婚の事もありましょう、又仕事の事もある。それを悩んでおられる苦しんでおられるのが、良く分かる。
 そして悩んだ果てに、僕は合楽に修行に行こうかとまで言われる。けれどもあん時に、先生にあげなこつ言うとるけんで敷居が高うして行かれん。それならお母さんが、一丁お願いしておくからと言うての願いであった。どういう様な生き方になったら、楽になるだろうか、という事でございましたから、私が、自分の考えを捨てることだよと、自分の思いを捨てる事だよと。
 親が子供の事を悪くなる様にとか、困る様にという考えを持つ親は無いのですから、親が言う通りにならせて頂いたが一番楽ですよ、という事でございました。けれどもです、今日の御理解を頂くと、親の言う事でも聞かぬ子は仕方あるまいが、悩んでおる、苦しんでおる、だからこういう素晴らしい生き方があるんだよと教えても、それを聞こうとしなければ親でも仕方がない。
 結局私はこの素直、素直という事、神様の教えて下さる事はそれこそ有り難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ程の神徳があるとお教えられるけれども、それを有り難く頂かずして、自分勝手にするからおかげにならん、とこう言われる。そこでだから求められるものは、結局素直心、神の言う事を聞くという素直心。それも普通でいう素直ではなくて、私は素直という事はね、神の言う事を素直に聞けるという事は、結局自分自身が清まる以外にないという事です。
 昨日一昨日でしたかね、世界清め運動だと、そういう大きな願いに立ってお互いが信心の自覚または使命感といった様なものが出来て来ると、自分の周辺の事も祈らずに願わずにおられん。清まっていく事を願わずに居られないけれども、それとてもまずは自分自身が清まることだ、世界を清めて行こうと言うならば、まず自分方の庭先をまず清める事だと、それは世界清めに繋がるのだと。
 昨日、丁度四時の御祈念を終わって下がろうとしとりましたら、ある若い娘さんが参って来ました。新春パ-テイにおかげを頂いて、それから初めて参って来た。お母さんが熱心に、福岡からですから参って来るんです。お母さんがここから頂いて帰る、「おかげの泉」をこの頃から何とはなしに一寸、その開いて見たら本当に、そこに自分が助からなければならない事が書いてあった。
 それからというものは、「おかげの泉」を繰り返し繰り返し読ませて頂いておりますが、「おかげの泉」という御本は不思議な本ですね、と言うわけです。もう本当にお参りはしませんけれども、心が清まります、とこう言う。ところが先生、実は今日はお詫びに出て来たんですけれども、「おかげの泉」でおかげで心が清まった、清まって行きよる有り難い御本だと思うとった。
 ところが読んだだけではいけない事が分かった。もう今日は、今までかってない様に腹が立って、それをとうとう爆発してしもうて、もう自分ながら自分が嫌気がさす程に、まあ慙鬼に耐えませんと。それでわざわざ福岡から、お詫びに出てきたと言うのです。だから、それだよ、と私が申しました、ね。おかげの泉を読むと言う事、成るほど素晴らしい事が書いてある。人間の助かり、成るほどこれで病人が助かると言うても本当だろうと思う位に感じた。
 そして有り難いと思うておった所が、もう今日は今までかって無いような、言わば癇癪玉が破裂したというかね、もう自分ながら愛想が尽きる様な爆発の仕方をして、もうどうにも居たたまれずに、今日はお詫びに出てきた。私はそれだ、清まるという事はそういう事だと思うですね。私は子供の時から、下駄なんかでも斜めに履く人は、心が曲がっておるとだという様な風に、婆が教えてくれよりました。だから私の下駄は、何時も草履になる位に真っ直ぐに履いています。
 その代わりに、私はこう履き替えよった。心が曲がっとると思われちゃならん。墨でんなんでんそうです。あすこの、信者さん方がお初穂書かれる所のなんかは、もう薙刀んごとなっとる、墨が。先日見て驚いた。あちらの御結界の墨も、薙刀のごとなっとる。ところが私が磨る墨は真っ直ぐですよ。もうしかも、最後まで真っ直ぐです。見せましょうか(引出しから今まで使われた、古く使い切ったものを出して見せながら)沢山、こげな墨がたまっとる。これ貯めちゃる、これは大きな墨ですから。
 最後のこげんなるまで使うとります。真っ直ぐでしょうが、この皆、箱のごと真っ直ぐ真四角になる位に。と言うて、なら私の心が真っ直ぐい訳じゃないです。そりゃやっぱり努力をするんです。私は必ずこう十遍磨ったなら、こっちも回してから十遍磨ります。なら下駄でもそうです。心が曲がっとる証拠、やっぱりこう片々なるけど、それでは曲がった様に見えてはいけないから努力を致します。それをその努力、それが私は清まっていく事だと思うんですよ。
 おかげの泉で清まった、本当にあの御本は心を清める、もうそれこそ有り難い、お参りしなくともおかげが頂けるという事が分かる、という程しに思うておったけれども、今迄かって無い様に腹立たしい事が起こって、しかもそれが爆発した。それで、いたたまれずに今日は、実はお詫びに出てきたと言うのです。それなんだよ、それで良いのですよと、まあ時々に癇癪もまわしなさい、そすと一遍でも余計にお参りが出来るじゃないか、と申しました事でした。
 それからと言うて、なら清まる事をね煎じ詰めて参りますと、本当に分からなくなるです。なら私共が、もう何十年間清める事に努めておるけれども、何処が清まったかと言うと、いっちょん清まっとらん。汚い汚い自分を、愈々発見して行くんです。私は、朝洗顔を済まさせて頂いた、言うなら手も口も顔もきれいに冷たい、必ず、お湯を使いませんから、お水で洗います。頭からザブザブこう洗います。そして奉仕着を付けて、そして又出て来る時に必ず口をゆすいで、又手をきれいに清めて出て来ます。
 子供たちが、思うだろうと思うんです。親先生、今顔洗うて手を洗うとってから、又出掛けにあそこでね、それは病的なという人も中にはありますね。けれども私のは病的じゃないです。それこそ、墨をこうやって握り替える様に、履物をこうやって踏み替える様に、やはり精進なんです。お装束を付けた、もう清まってからですから、それでもやはりあそこに、食堂の前に手洗いがありますね、あれはお装束を付けた先生方が、必ず手を洗われる事になってるんです。
 昔の先生方は、皆そうでした。だから必ずお装束を付ける所に手洗いがある訳です。言うならば清めた上にも清めるという、そういう私は心使いがね、段々清まるという事に繋がって行くんだという風に思います。もう昔の御理解の中に[桃の花 鯉棲池や 薄濁り]という御理解がございました。これは俳句ですね。[桃の花 鯉棲池や 薄濁り]桃の花は桃色にも通ずる事です。鯉棲むという事は、泳いでおる鯉の事ですけれども、それは人を恋うという意味にも通ずるのです。
 水清らかであるために、清き心の人であるために、魚が棲まないおかげに、言うならば清貧に甘んじて一生を終わるという人が沢山あります。本当に心の清らかな人。だから信心でいう清らかと言うのは違うんです。むしろその薄濁りである方が、言わば鯉が棲み着き易いのです。先日から自堕落という事を頂きました。自分の自堕落さというものを自分で自覚したら、そこから日々の精進です。
 言うなら墨を持ち替える様なもんです。今、洗うたけれども出掛けには、又着物を付けたり足袋を履いたりしとりますから、又手を清めて出る精進なんです。皆さんが、お祭りたんびんに御祓いを受けられます。何か祓われた様な、清まった様な気がするでしょうが。何かというと塩を撒いて清めると言います。それで気持ちがいいでしょうが。水を掛かる、それこそ体が清まった様な気がするでしょうが。その清まった様な心になる、そういう気がするという事が清まる事なんです。
 だから精進を惜しんではならないという事。塩を撒いただけで清まるごたるなら、別に改まりも要らなければ、研(みが)く事もいらんじゃないかと、そういう理屈を言えばそれまでです。塩を撒いたら、言うならば清まった気がする、お水を掛かったら、体が清まった、なんか清々しい心がする。その清々しい清まったその心が、おかげを頂くのです。それこそ歌の文句じゃないですけれども、磨いても磨いても身が鉄ならば、時々は浮気の錆がでる、という歌があります。磨いても磨いても、という事なんです。
 それが私は心掛けだと思う。清まるという事、言うならば今日の御理解でね、親の言う事が聞けない。こげな楽な事はない、親が毒なものを食えという様な親は絶対にいない。それこそ仙台萩の正岡に【聞き取り不能】三千世界に、親が子に毒なものを食えという親は無い、けれども千松に、毒と見たら試みて食べてみてくれというのですから、まあ正岡ぐらいなもんです。
 毒な物を食べろという親はいないのですから、親の言う事を聞いたら一番楽です。それを、自分の少しばかりの頭脳とか手腕とかを、そして悩んでおる、苦しみ抜いておる、そして修行さして貰うて、頂けれるという事は、結局素直に成ることだよ、清まることだよと。なら素直になるとか、清まるとかという様な事も、煎じ詰めてまいりますと、実を言うたら、分からん様になりますが。
 今朝方、私はお夢を頂いた。私が、お風呂に入らせて頂こうと思うて行った所が、もう一寸待って下さい、お風呂の掃除があっているわけです。それもお風呂の掃除が、もう大きなお風呂です、それがタイルで作った立派な風呂ですけれども、それをひっくり返しちゃるのです風呂を。そして先生見て下さい、もう後ろには湯垢の風呂の底の方に付いとる、それを綺麗にしてから入って頂きますから一寸待って下さいというわけなのです。清まるという様な事は、そういう事じゃ無いです。
 風呂が言うならば表面だけと言うですか、綺麗に洗うて、私が何時も申します様に、気持ち良う、気持ち良く入れば良い。風呂の裏まで、風呂をひっくり返して裏まで洗わんならんという事じゃないです。妙に理屈っぽくなりますとね、又は自分と言うものを見極めて、あまり行き過ぎますとね、そういう風呂の裏をひっくり返して、自分ながら幻滅を感ずるという様な言い方をする人がありますけれども、掘り下げて行けば限りが無いのですけれども、そういう事ではないのです。
 それこそ[桃の花 鯉すむ池や 薄濁り]であります。桃の花もあって良し、薄濁りであっても良い、それを神様が庇うて下さる、そしてお徳を下さる。問題は、素直に清まることに精進して、お役に立ちたいの一念といった様なものが燃えてくる時に、神様が一切をカバ-して下さってお庇い下さって、お徳を下さる。お徳が頂けれると、もう愈々楽に清まって行く手立てというものが、限りなく付いて来るんです。
 もう本当に、自分の心というものがどうしてこんなに大きくなっただろうかと、自分の心というものがどうしてこんなに有り難うなって来るだろうかと、これは徳を受けた人達が思う事だと思うんです。そこの徳を受けますと、後はもう限りがなく心が大きくなって参ります。もう嬉しうして嬉しうして、有り難うして有り難うして、という様な心の状態が開けて来るのです。そういう話を金光大神は残しておって下さるのです。それこそ風呂の裏までひっくり返して改めて行け、そこを拭いて行け磨いて行け、といった様な事は無いという事であります。
 ですから素直にならして下さい、場合には、素直に成る事は泣く泣くと言う様な事もありましょう。右と思うけども、親先生が左と言いなさるから、と言う様な事もありましょう。そしてなら清まるという事でもです、その事を以て改まれ、その事を以て清まれというので、その問題問題をです、実際の清まりは出来ないけれども、その問題を以て磨いたり改まったりするという、繰り返しがなされて行くという事がです、心清らかに心清い人として、神様が見てくださるのです。
 なら私の所の墨一本でもそうです、はぁ親先生という人はよっぽど心が真っ直ぐい人じゃろう、下駄を見ても墨一本見ても、それこそ一直線に真っ直ぐ減っていっておる。決してそうじゃあない、けれどもそれには精進があっておる、こうやってね。私は信心を進めて行くという事は、そういう事だと思う。だから精進の心というものを、私は怠ってはならないという事であります。そこに、例えば清まってはいない、例えば大阪の泉尾の先生なんかは、もう本当に我鈍物の自覚という事を言われます。
 もう自分の様な汚い人間なおらん。自分の様な鈍物はおらん、という事であんなさいましょう。けれどもお役に立つことならば、命は惜しまんと言っとられる。我が身どうなっても、私の様な鈍物でも神様が使うて下さるならば命は惜しいと思いません。そこに、これも先生が言われる、何時もお庇いの中にあって、この様な大きな御用にも使うて下さると、喜んでおられます。だから信心を偏見と言うかね、見方が改まるのです。それこそ、普通の人間では出来ない様なことまで考える様になる。
 そして信心ちゃ難しい、自分達じゃ出来んといった様な事になって、又はそれを煎じ詰めていくと、それこそ華厳の滝に飛び込まんならん様になる事にすらなって来るのです。そこに哲学と宗教の差があるのです。宗教というのは、もう救わずにはおかん、助けずにはおかんという、その働きに会う事なんですから。だから真っ直ぐはないけど、真っ直ぐならせて頂こうと、こう精進努力する、という事が有り難いのです。自堕落な自分であるけれどもです、その自覚に立って精進して行く所に自他楽です。
 自他楽自分も人も、楽になる程しの素晴らしい働きが生まれて来るのです。だから金光様の御信心は、成程人間生身を持っておる、様々な悩み難儀を持っておる人達がさせて頂く宗教だ、という事が分かるです。そうして行く所にです、例えば親の言う事が素直に聞けれる、清まって行くに従ってそれが有り難いという事になって来る。言う事を聞かん子は親でも仕方がない、ですからもう親としてはどうにも仕方がないけれども、これは銘々が親のいう事が、どんなに素晴らしい事かという事をまず体験する事。
 いろんな思いとか、自分の言うならば我情であったり我欲であったりをです、一応棚に上げて、神様の教えて下さる事を素直に聞く修行です。それが仲々出来ません、出来ませんけれども繰り返し修行して行く内に、それを清まったものとして、真っ直ぐい心を持っておるものとしての、神様の御信用が付いてまいります。神様の御信用が付く、神様の言うならばお徳が頂ける様になりますと、もう自分の力ではありません。「人力に見切りをつけて神力に縋れ、人力自ら湧く、」もうお徳の世界です。
 人力言わば自ら湧くという事は、今まで出来なかった事が、出来る様になってくる。徳の世界は、又限りがないことであります。とても自分だんのごたるつとが、徳でん何んでん受けられんと言わずに、昨日福岡から、参ってきた娘さんの様にではないですけど、まずおかげの泉を読んで、素晴らしいご本だと、なら合楽にお参りさせて頂いておる皆さんがです、本当に日々、有り難い御教えを頂いてと、けれどもなら時折は、浮気の錆が出ると言う訳です。
 それこそ自分でもびっくりする様な、言うなら爆発する様な事が有るけれども、そん時にそれが自分の内容にそういう清まっとる、清まって行きよると思いますけれども、今までかって無い様な腹立ちが爆発したという事をお詫びに出て来る、そういう精進が繰り返されて行くという事がです、愈々素直に成る事と清まると言う事が一つに成っておかげの頂けれる、言うなら世界に出る事が出来るんです。言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ、親でも仕方がなかろうがと、そういう親から仕方がないと匙を投げられるような、只、自分であってはならないという事でございます。
   どうぞ。